祖父の命日と死について思うこと

今西礼子

2011年01月03日 21:07

1月3日は、わたしの祖父の命日。
わたしが中学2年生のときに、祖父は他界した。

わたしは祖父が白い布団の上で、安からな寝顔をして眠っているのを見つめていた。
そこには言葉で言い表すことのできない静寂があった。
今にして思うと、それは魂が肉体から離れた後の、静寂だったのだと思う。
まだ、幼かったわたしは、何をしていいか分からず、ただ、黙って見つめていた。

そして、母の声が遠くから聞こえてきた。
その声が、「お祖父ちゃんが今朝亡くなった」と、わたしに呼びかけていた。
それで、わたしは自分が夢を見ているのだと気づいた。
起きて、母にたった今、お祖父ちゃんの夢を見ていたというと、お祖父ちゃんはあなたのことを可愛がっていたから、きっと知らせに来たのねと言った。

お祖父ちゃん子でもあったわたしは、祖父の死が信じられなかった。
悲しみというよりも、起こったいることが飲み込めず、ただ、わたしは呆然としていた。
これがわたしにとって初めて体験した死だったこともある。
そして、悲しみが後からじわじわとこみ上げてきたのだった。

そして、3年前の父の死を乗り越えるのは、わたしが想像した以上に困難だった。それはわたしが正しく「死」について、まだ理解していなかったからだ。


レナード・ジェイコブソンの著書『Journey Into Now 「今この瞬間」への旅』には、死について言及されている章がある。この章を翻訳している最中、わたしの中にまだ微かに残っていたものが完全に吹っ切れた。
そして、わたしたちが「死」を正しく理解したときに、この瞬間に生きることの意味を実感するのだと思った。


「死を受け容れいれることは、人生を完全に生きるために極めて重要な必須条件です。この瞬間に存在することは、一瞬一瞬、過去に死ぬことです。そのため、死を受け容れることは、この瞬間に存在するための必須条件でもあるのです。」(『Journey Into Now 「今この瞬間」への旅』12章より抜粋)


新年の幕開けに思う「死」について。




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